【学校長より】1学期終業式によせて

100回目の夏に立ち会う君たちへ

 「この命繰り返し難し」
 今から30数年前、初めて勤務した学校で、当時生徒指導部長であった先生が、転勤の時におっしゃった言葉である。
今生きているこの命は繰り返し生きることのできない命である。だからこそ、人はその命を大切に生きねばならない。そして、そうであるがゆえに、どんな命も尊い。
ふとした拍子に思い出し、その意味を改めてかみしめることが年々多くなってきた言葉でもある。
 この夏、私たちは大東高校の100回目の夏に立ち会っている。そして、また、これまでの夏がそうであったように、この夏もまた二度と帰らない。
 かつて、満州に行くことを求められ、その求めに応じて満州に行った女子生徒たちがいた。1945年4月のことである。そしてそれから1年半、彼女たちは敗戦の混乱の中で、収容所での生活を強いられた。目の前で人が殺される経験もした。食べるものがなく、ひもじい思いを抱え、草の根をかじり、命をつないだ。中には故郷の土を踏むことなく亡くなった生徒もいた。引き揚げ命令が出たのは1946年の夏。そうして、彼女たちが帰ってきたのは戦争が終わって1年以上もたってからである。間一髪で船に乗り、そうして、命からがらに帰ってきた彼女たちにはしばらく表情が抜け落ちていたという。それほど、過酷な体験を彼女たちは強いられてきたのだった。
 大東高校の100回の夏の中には、君たちと同じ青春の夏をそうして生きのびた命もあった。
 豪雨の後に厳しい夏の日差しが照り付ける今年の夏。
多くの命が失われたことを目の当たりにした夏でもあり、また、元の「当たり前」の生活を取り戻す切実な営みが続いている夏でもある。
球技大会の開会式で、生徒会長が豪雨で亡くなった命に「黙祷をささげましょう。」といった。そういう言葉が出てきたのは、亡くなった命と自分たちが決して無関係ではないという思いがあったからだろうと思う。
報道されて初めて私たちは、その命がどんな人生を歩み、何を思って生きてきたのかの一端を知る。そういうかたちでしか「知る」ことのない命であっても、一つ一つの命の尊さに思いを寄せ、「悼む」ことはできる。「黙祷」は、その人を知っているかどうかに左右されない、失われた命への敬意の形だと私は思う。だから、生徒会長から提案があり、全校で心静かに黙祷が行われたことを私は尊いと思う。
 1学期、君たちの力いっぱいチャレンジする姿をたくさん見てきた。それは、必ず君たちの力になっていると思う。
 たくさんの命が失われたこの夏、私たちは、いまここで生きている。だからこそ、たくさんのことに力いっぱいチャレンジをして、自分を自分自身で大切に育ててもらいたい。そして、同時に、周りの人の命も同じように尊いことに思いをはせてもらいたい。
                    平成30年1学期終業式の日に
                    校 長   中 村  訓 子 

pickupコンテンツ
学校長挨拶
学年通信
学校評価・校務反省
進路だより